名前:やんちゃ坊主 投稿日:2013-03-27
俺は、高校と大学を実家ではなく県外に行っていた。
中学の頃は何かをやらかすたびに
親が来ては、俺の悪さの為だけに頭を下げては帰って行った。
高校でも、試合の度々に遠くからきては
応援して、俺が恥ずかしいからあまり話していなかった。
高校も無事卒業、大学に進学して3年目に父と母が東京に来た。
会った時には、帰省した頃とは別人のように痩せていた。帽子もかぶり、マスクもしていた。
俺は、この時に「父は癌だ」と思ったがそれを言わず黙って下を向いた。
母が席を離れると、父のが「元気か!?」と言ってきたが、その言葉にも答えれないほど、涙が目に溜まっていた。
でも笑って「父さんは元気なんか」と聞いた。
父は「癌だ」と言ってたが笑っていた。
かける言葉なく、病院に行くと行ってそこで別れた。
涙が止まらなかった。
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県外にいるからたまにしか帰れないが父の癌は小さくなっていると電話で
何回かあった。
もうすぐ治ると父は俺に言って
笑って電話をしてくる。
安心して夏に帰省するとまだ痩せて辛そうだった。
だがその体で無理して仕事をしていた父の姿を見た。
帰ってきては飯も食べない。
ある日入院すると言い、
夜中に病院に入りそのまま当分安静することに。
俺も父の仕事の手伝いで朝から晩まで
手伝いをしていて見舞いもあまり行けなかった。
数日が経ち見舞いに行くと
父はベッドで寝たきりになりまるで別人のように骨と皮だけのようになっていた。
この時、「もうダメなのか」と黙って
父の横に座った。
その日から父の看病を母と従兄弟と交代で始めた。
父は動く事すらできなくなり
足のマッサージなどをみんなでした。
癌に効く苦い茶を癌が治るようにと
俺の彼女がくれた。
苦そうだが無理にでも飲ませた。
日が経つほどに呼吸は荒れて
酸素吸引と痛みを和らげる薬がうたれた。
この薬で幻覚が見えたり
いつの話しをしているか分からなくなっていた。
だが父はそれでも家族の事ばかり
考えては「大丈夫か」と聞いてきた。
涙が止まらなく
ばれないようにマッサージを続けた。
見舞いを来る人には元気に笑っていたが
動かない足と手を隠してくれと毎回言う。
来た人達には「治るから心配すんな」
と言って強がっていた。
弱音は一切ない。
ある日、母から「もうダメみたい。延命するかしないか」とぼそりと言われた。
だが、頭がまっしろになり「俺達は決めれない」といった。
その話はでてこなくなり、
数日看病をして母と交代する時に
「家の庭の木を綺麗にしてるから頑張って帰ってきてや」と言うと、
父は「分かった、頑張る」嬉しそうな顔で笑った。
その夜中に電話がなった。
まさかと思い電話に出ると
「もう危ないから兄弟で来て」と言われた。
すぐ駆けつけると父は辛そうに息をしていた。
涙が止まらなく「頑張れ」と言うと
父は最高のスマイルで頷き笑っていた。
それが最高の最後の笑顔だった。
葬式には今までの業者さんや友達などから花が送られて葬式場には入りきらないぐらい。
この時に父の偉大さを改めて感じた。
親孝行もできなかったが、あの入院生活の看病が、今思えば親孝行だったのかなと数ヶ月経った今思えてきた。
本当に迷惑ばっかりかけたけど
最後の最後まで笑顔をありがとう。
ただ長い間眠るだけだよな。
天国では仕事せんで体休めろよ!?
でも天国でも仕事してんだろうな。笑
最後に
親父みたいな親父になってやる。
これが今の俺の目標であって
絶対親父を抜いてやる。
本当に本当にありがとう。
呼んでくれた人達に。
今両親がいる人は、親孝行でなくてもいい。
話す事や、ちょっとした手伝いでもいいからしとくべきだと思う。
いつ死が来るかわからない。
いっぱい話せる時に話して
いっぱい甘えて
いっぱい怒られて
いっぱい感謝する
全開の笑顔を見せる。
これが僕なりの親孝行だと思う。