名前:泣ける名無し 投稿日:2019-06-11
先日母親が切開手術を受けた。比較的簡単な物で、手術は何の問題も無く終わった。
でも手術後の母親と面会すると、麻酔や手術後の影響なのかとても声がか細く、体も殆ど動かせない状態だった。
いつもの元気な母親とは違った姿と雰囲気に、私は少し切ない気持ちになった。
そこで私は何故か数十年後母親を看取る時の事を想像してしまった。
真面に動けず、小さな声しか出せなかったからだろうか。
そして私は両親に碌に親孝行が出来てない事に気が付いて胸が苦しくなった。
私の本当の父は母と結婚していたのにも関わらず、数人の女と不倫をしていて母に暴力まで振るっていた。
母親はそんな環境に耐えかねて私が1歳の頃一緒に家を出たそうだ。
家を出てから母は私を女手一つで育ててくれた。
単にシングルマザーだっただけではなく、母親は日本人ではなかった。
今でも根強いが、日本社会は外国人の労働者に対して厳しい。
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優秀な学歴であったにも関わらず給料の安い仕事や、時には重労働の仕事をしたこともあったという。
母は朝早く起きて私を保育園に送り、日中はずっと働き夜になったら私の事を迎えに来てくれ、家に帰ったら家事や私の世話をしてくれた。
女性が一人外国の地で二人分の生活費を稼ぐ事はとても大変な事だったと思う。
私が小学生の頃に母親は再婚したが、それは殆ど毎日独りぼっちで寂しがっていた私を想っての事だった。
そのお陰で母親には幾分か時間に余裕ができ、家に居る事も多くなっていった。
空いた時間で趣味(料理)をする事もできるようになった。
母親は料理教室で作ったものをいつも持ち帰って食べさせてくれ、余裕がある時は美味しい料理を作ってくれた。
然し幸せな日々は長くは続かない。
元々両親は私の事を理由に結婚したため、そこまで気が合う仲ではない二人は次第に性格の違いやお金の事で喧嘩するようになっていった。
喧嘩して母親が泣いているのを見た時は、父親を殺してしまいたいと思う程憎んだ。
幼い頃から独りの事が多かった私は十分に自我が育たず、
また人とコミュニケーションを取ったりする事が苦手だった。
そのせいか親に中学受験を勧められても漠然とした目標の前では努力しようと思えず、勉強しなかった。
それでも幸い頭が良かった私は最後の半年程頑張るだけで第一志望(と言っても親が決めた学校だが)の進学校に合格することが出来た。
だが人生はそう上手く行くものではない。
中学受験と違って中学の授業はしっかりと勉強しなければ十分には理解出来ず、またコミュニケーションをあまり取れないのでクラスにも馴染めない。
学校が家からそこそこ遠かったのも手伝って通学する意欲を失った私は二年程で不登校になってしまった。
不登校になってしまってから両親は私に「今頑張れば将来の可能性が広がるから頑張って欲しい」と言ったが、当時の私はその言葉を信じることが出来ず、それどころか「ちゃんとした家庭に生まれていれば十分な愛情を受ける事ができて、強い不安感と孤独感に泣く事も、進路に付いて悩む事も無かったのに...」と両親を恨むようになっていった。
引きこもりだった時の生活はそれは酷い物だった。バイトをする訳でも無ければ、碌に家事すらせず、ネット上での人間関係に依存する日々。母親の忠告や心配する声に苛立って酷い事を言ってしまった事は数えきれない程ある。その度苦労して私を育ててくれた母親の気持ちを考えて酷い自己嫌悪に陥った。
母は日本に来てからずっと苦労していたが、私が居なければ自分の国、家族の元に帰ってずっと楽な生活が出来たんだろうと思う。
嫌いだった父も、血の繋がっていない私達の為にお金や色々な事を工面してくれていた。
そんな事を考える度に自分のせいで両親が苦しんでると思うようになって、いっそ自分が消えてしまえば両親は幸せになれるんじゃないかと思う事も何回もあった。
そんな日々が続き、ネット上の人間関係も上手く行かなかった私はどんどん自暴自棄になっていった。
それでも両親は私の将来の為に色んな道を模索してくれた。
そんな中、母親が突然激痛で動けなくなり、救急外来に行くことになった。
検査をした所、膵臓に膵石があるとの事だった。
三日後に手術することになり、リスクや後遺症は殆ど無いと説明されたが初めての手術で母親は不安だったらしい。
私は大事でない事に安心したが、同時に両親の死についても考えるようになった。
今直ぐではないにしても、両親がいつ死んでしまうかは分からない。
そう思うと急に親が消えてしまうかもしれない恐怖と、こんな歳になって未だに親孝行の一つも出来てない、それどころか心配と迷惑ばかり掛けてしまっている罪悪感で胸が痛くなった。
手術の前日まで私は母親の事しか考えられないでいた。
もし大事になってしまったら母親に何もすることも出来ずに別れてしまうのではないか、そう思うと不安と後悔で何も手に付かなくなっていた。
翌日、病院へ手術を受けに行く道中私は母親に「もし手術で死んじゃったらどうする?」と聞いたら、母は少し声を上擦らせながらも「死んでも天国からずっと○○(私の名前)の事を見守っててあげるから、立派な大人になって家庭を作るんだよ。そうしたら私も嬉しくなるから。」と答えてくれた。
今まで迷惑ばっかり掛けて、何一つ恩返しする事が出来てない私を、こんな時になっても第一に想ってくれる母親の愛情の深さに私は涙を堪えるので必死だった。
病室に通され、手術の説明を受け程なくして母親は手術室の奥に消えていった。
説明の際再度手術のリスクの低さは説明されたが、それでも母親が帰ってくるまでは不安で仕方なかった。
「手術は全て順調に終わりました」
と医師に言われた後も、戻ってくるまでの時間を長く感じ、何かあったのではないかと気が気でなかった。
帰ってきた母親はいつもと変わり無い容姿だったが、普段見せない疲れ切った表情をしていて、体には二、三本管が繋がっていた。
母は術後のせいか小さな声しか出せなかったが、一通り様子を聞いた後の私に「元気になったら一緒に運動しようね」「余裕が出来たら勉強を教えてあげる」等と言ってくれた。私は唯々頷く事しかできなかった。
面会時間終了の時間が迫っていたので帰る事になったが、別れ際母を安心させたいと私は母の手を強く握り、笑顔で手を振った。
その時母の頬が緩んで穏やかな顔になった事を私はいつまでも忘れないだろう。
今私は18歳で、両親は54歳と55歳。
現在の日本の平均寿命は84歳と言われているけど、自分の両親がいつ亡くなってしまうかは誰にも分からない。
後悔先に立たず、孝行のしたい時分に親はなし
まだまだ永遠の別れは遠い未来の話だろうと思っていると、急に亡くなってしまったとき酷い後悔と悲しみに暮れる事になり、また親も現世に未練を残したまま旅立つことになってしまう。
私もつい最近までそんな簡単な事に気付けないでいた。
まだ親は元気だから大丈夫だろうとか、このずっと続いてきた日常はいつまでも続くと漠然と思っていた。
でも母親の入院と母の居ない生活を経験してそんなことは無い、日常にはいつか必ず終わりが来るんだと実感した。
別れ際の行動は親孝行と言うにはあまりに些細だけど、確実な一歩だったと思っている。
私は一度は人生を諦めかけていたが、生活を改め、両親の助言と支援を受けて再び学道の道を目指す事にした。
私達は今父親の仕事の都合で海外に居るが、そこの大学は日本よりも短い期間で終わるため、努力すれば日本の同年代の人達に追い付けるという。
高校を卒業していないので日本でいう高認のような試験を受ける所から始まるが、それでも自分の将来のため、両親を安心させるために必死に頑張っている。
これからの日常、そして親を看取る時またあの笑顔が見れるように...