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僕の隣には「のの」がいる

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名前:のの 投稿日:2018-10-20

少し思い出に浸ろう。
ウチにはののちゃんという16歳の老猫がいた。アメリカンショートヘアのよく知り合いからは美人と言われる美猫(メス)だ。ののちゃんがウチに来たのは僕が小学6年生の時だった。僕が以前から猫飼いたい飼いたいと言っていたのもあり、母が通っている美容室で生まれた子を引き取った。生後2週間くらいだろうか。本当にちっちゃかった。

なぜ僕が猫をそんなに飼いたいと思っていたんだっけ。もう少しさかのぼってみる。
僕が物心ついた頃からウチには猫がいた。シロちゃんという猫で元野良猫だ。外での喧嘩のせいで怪我をしてしまい、3本足の猫だった。本当に真っ白な猫で、祖母が野良猫時代から世話をしていたらしい。よくしっぽを触ってシロちゃんに引っかかれ泣いていたような。シロちゃんはよく祖母の膝で寝ていた。祖母は僕が小学2年生の時、くも膜下出血で亡くなった。シロちゃんも後を追うように、その翌年亡くなった。シロちゃんが死んだ直後、あまり涙は出なかったのに、遺体を送り出す時にダンボールで横たわっているシロちゃんを見て号泣したことを覚えている。おそらく、二度と会えなくなる、という死の現実を受け入れるには、僕はまだ幼かったのだろう。あまりシロちゃんと思い出を作ってあげられなかった後悔、それがまた猫と暮らしたいと思うようになったきっかけのように思う。

話を戻そう。そうして念願の猫、ののちゃんを飼うようになり、毎日が新鮮だった。勉強しているペンにいたずらしたり、寒い時は背中に飛び乗ってきたり、いつも何かを僕たちに仕掛けてきた。家族の中心にはいつもののちゃんがいた。僕は男2人兄弟の弟で、どちらかと言えば兄に圧政を敷かれていたが故に、弟ができたみたい(メスだけど)で嬉しかった。猫を飼ったら、絶対にやろうと思っていた理想を追い求め、寝る時には布団に入れようとしたりもした。このせいで布団嫌いになったかもしれない。冬には布団には入ってくるが、かけ布団が被さるようになると出て行ってしまう。ごめんね。こうしてののちゃんに癒される毎日だったが、小学6年生の僕はこの当時、とても苦しい学校生活を送っていた。いじめだ。僕は自分で言うのもあれだが、それまではどちらかと言えば人気者?のポジションで学校生活を嫌だと感じたことはなかった。少し乱暴なグループが中心のクラスで僕もそのグループにいた。僕はそのグループに嫌気がさし、他のクラスの友達を遊ぶようになった。それで付合いが悪くなった途端、いじめが始まった。僕は学校を休んだ。学校に行きたくなかった。正直家にいても学校に行けばまたいじめられる。自分に味方はいない。解決の道筋などないのだ。辛くて一人で塞ぎこんでいた。でもそんな時、隣にそっといてくれる存在がいた。ののちゃんだ。ののちゃんはいつも通りでいてくれた。ののちゃんといると辛いこと全てを忘れることができた。時折、顔も舐めてくれたのかな。僕は3日後再び学校へ行くことができた。隣にののちゃんがいてくれたから。

中学生、思春期に突入した。先ほどのいじめがあった頃くらいからだろうか。僕は人にあまり心を許さないようになった。本音を言わず、あたりさわりなくニコニコしている、という感じだろうか。別にそういう自分が嫌なわけではなく、そのおかげで得られたものも多くあるが、家に帰ったら『はーーーっ』という状態だ。常に周りの目を伺い、『嫌われていないだろうか』などと考え、自分ではない自分を演じているような感覚だった。世間一般の思春期もこんな感じなのだろうか。学校では自然体ではいられなかったと思う。でも家ではそんな世界から抜け出せた。ののちゃんがいたからだ。ののちゃんには自分を全てさらけ出せる。ののちゃんはありのままの僕と一緒にいてくれた。中学時代も高校時代もそうだった。そうやって思春期の僕の隣には、いつもののちゃんがいた。いてくれた。

大学生になり、社会人になり、少し家にいない時間も増えてきた。それでも家に帰ってきて最初に探すのは、ののちゃんだ。別に特別僕に懐いていて寄ってくるわけではない。でもののちゃんは僕の心に常にいた。ののちゃんのいない世界など創造もできないほど、僕の心の中心となっていた。

2018年になり、僕はひとつの人生の岐路を迎えた。これまで夢に見ていた教師へ転職することとなった。心を躍らせながら、近隣の学校であるが、単身住まいを選び教師人生が始まった。しかし、教師の道は甘くなく、何もかもが自分の思うようにいかず、心がみるみるうちに憔悴していった。もうダメだ、僕は退職し勉強し直すことを決め、実家に帰ることとした。その連絡をした時、ののちゃんが病魔に脅かされはじめていることを母から聞いた。あれだけ元気だったのに。。。帰ってののちゃんを見てみると今までのののちゃんとはうって変わって疲れている表情、姿勢のののちゃんを目の当たりにした。それは8月のことだった。

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お医者様は老衰が近づいてきている、と仰っていたが、まだまだののちゃんは生きてくれると信じて疑わなかった。今度は僕が隣にいてあげる番だ。ののちゃんは痙攣を繰り返し、餌もなかなか自分から欲しがらない。トイレも自分であまり行けないなど、猫らしい動きや仕草をしなくなっていった。恐らく脳の疾患があるともお医者様は仰っていた。僕は自分の部屋ではなく、ののちゃんのいるリビングで寝るようにした。夜中に痙攣で目が覚めることもしばしばあった。でもこれまで僕を支えてくれたののちゃんのためだ、何の辛さもなかった。でも痙攣のするたびにゼエゼエと大きく息をするののちゃんを見るのは辛かった。あれだけ元気だったのに。。。それでもののちゃんは起き上がり、フラフラと歩きながら餌を食べた。痙攣後は食欲が異常に湧くようだった。無我夢中でがっつくため、横の水桶に足を突っ込んだまま食べ続けることもしばしばあった。ののちゃんはまだまだ生きたいんだ。僕たちも必死でののちゃんが回復してくれるようにこまめに水や餌を与えた。点滴のために動物病院にも足繁く通った。

9月にはいり、猛暑も越え、少しずつののちゃんの体調は良くなっていったことを覚えている。なかなか熟睡の姿勢がとれず常に緊張状態のような体勢は相変わらずだが、僕が帰ってきた直後より表情がしっかりするようになった。ご飯もよく食べ、チュールという猫用のお菓子をよく欲しがった。猫らしい動きを取り戻していった。

それでも行動範囲が狭まるにつれ、ののちゃんは走る時のブレーキが利かなくなったり、ジャンプ力も次第に衰えていった。これまで登れていた場所からは落ち、次第に登らなくなった。でも、表情には生気がある。行動範囲が狭くともののちゃんの心がしんどくなければそれで良かった。僕はののちゃんとは来年も一緒に暮らせると感じていた。まだまだ隣にいたい。
しかし、ある日床に血の跡が点々と落ちていた。ののちゃんの足から出ているものだった。痙攣を起こした後の無理な歩行や無謀にも高いところへ行こうと何度も足を壁や床にぶつけていたことによって血が出ていたようだ。それでも動きたい、という気持ちがあるのであれば好きなように動いてほしい。動くことでまた、高いところへも登れるようになるはずだ、そんなことを思っていた。

それでも歩行や跳躍に失敗し続けた結果、ふと血のついた足の裏を見ると、穴のようなものが空いていた。骨も見えているような状態だった。なぜ段差などのブロックを早めにしておかなかったのか、この頃からののちゃんにどうしてあげれば良かったのか、と後悔することばかりであった。ののちゃんは包帯を巻き、足の肉が盛り上がってくるのを待つよう治療を施した。膿は出るが、少しずつ肉も盛り上がり、順調に回復していくように見えた。しかし、包帯で鬱血したのか、今度は足先が大きく腫れていた。一難去ってまた一難。足先に力が入らないのだろうか、その症状が出始めた頃くらいから、ののちゃんはバランスの悪い歩行をするようになった。明らかに左側に体重が乗っている。右足はつまさきで立てていない。鬱血を解消するため包帯を緩め、肉も盛り上がってきていたこともあり、乾燥療法に切り替え、暇があれば家で治療を行った。体は少ししんどい状態だが食欲に関してはとても状態が良かった。ある程度の距離でも、好きな魚介や鳥肉のパウチやチュールを見せると寄ってくるようになった。あとは足の状態さえ良くなれば。。。

右足の足先の腫れは包帯をとってからは幾分か引いてきた。しかし、今度は足首付近が腫れてきていた。今度は何だ。膿がたまっているとのことで、出る膿を必死に拭き取り回復を待った。膿は次第に量は減っていったが、腫れは全く引いていない。むしろ尋常じゃないほどさらに腫れが増していた。ののちゃんはもう足首に力が入っていないような歩き方をしていた。よくこけるようになった。こけてそのままの状態で伏せていることも多く見られた。それでもまだまだ食欲はあり、僕は諦めていなかった。またののちゃんが楽しそうに走る姿を見ることを。

お医者様に足首の状態を見せると、どうやら腫瘍、つまり癌による腫れだとのことだった。腫れが引くことはなく、今後は膿がところどころから出てくるでしょう、とのことだった。それだけでも大きな衝撃だったのに、さらに衝撃の診断も受けた。これ以上ののちゃんを苦しめることなど何があるのだろう。レントゲンの結果から、もう足首付近の骨は溶けてしまっていて、二度と足先を動かすことはできない状態であることを告げられた。治すのならば断脚のみ、ののちゃんの今後を思うと、お医者様はその処置を勧めなかった。もちろん僕たちも、この年齢で片足を失うことがののちゃんにとって幸せとは思わなかったので断脚はしないと決めた。でも、そんな足になっても、ののちゃんは餌を見れば寄ってくるし、トイレにも自分から入るようになるなど気持ちは健康的だった。片足をひきずったり、途中で倒れながらも懸命に動いていた。まだまだ動きたいのだろう。僕たちはなんとか歩けなくなるようになってしまうのだけはののちゃんのためにも避けたい、腫れだけでも引かすような治療をお医者様に御願いした。抗生物質を投薬し、腫れをコントロールしていこう、ということになった。この時、10月。僕も次年度の教員試験を受け、勤務先が決まりつつあった。

投薬後数日は、特に変わりなく、食欲もありいつも通りのほほんと過ごしていた。足首の腫れも素人目に見てもわからないが引いてきているらしい。もっと腫れが引いてくればもう少し楽に歩けるようになるかな。治療の判断は正解だと思った。しかし、なんだか様子がおかしい。

ご飯はしっかり食べているはずなのに、体重は減る一方だった。また、日を追うごとに食欲が低下していっていた。抗生物質が悪さをしているのか。僕は何て判断をしてしまったのだろう。足の腫れは気にせずこれまで通りでも良かったのはないか。後悔ばかりが募っていった。

ののちゃんの状態はどんどん悪くなる一方だった。ある朝、トイレ付近に水の混じった血に、何かドロっとした物体がそれとともに散乱していた。ののちゃんはその嘔吐物の近くで横たわっていた。胃が荒れて一時的に血が出ているだけかもしれない。またきっと良くなる、そう信じていた。そう信じるしかなかった。
それでも自分の気持ちとは裏腹に、その日以降、ののちゃんは食事の量がどんどん減っていった。大好きだったチュールも全然舐めないし、舐める力も弱弱しくなっていいた。あれだけ『ちょうだい!』とせがんできていたのに。
亡くなる3日前だっただろうか。動物病院では、貧血と脱水症状を起こしていると診断を受けた日のことだった。餌はダメでも水分はしっかり取らさないと。水場につれていく。もう自分では体を支えることが満足にできない状態だった。それでも体を支えながら、水場まで連れていき、水はかろうじて飲んだ。それもかなり勢いよく。そんな小さなことでも、ののちゃんが必死に生きようとする姿は、とても嬉しかった。

そんな喜びもつかの間だった。水を飲んだ直後、その水を吐いてしまったのだ。しかも、その吐き方がこれまでのように、えづいてからではなく、『グエッ』という声を挙げ、苦しそうに何度もその声を挙げ、吐いていた。水ですら胃が受け付けていない。そして何より辛いのが、ののちゃんは水を飲みたいと思って水を飲んだのに、それを吐き出さざるを得ない状態だということ。生きたいと思っているのにその行為が許されない、なぜこんなに苦しい思いをののちゃんがしなければならないんだ。もうやめてくれ。でも僕はののちゃんの隣にいる。目を背けずに最後まで。絶対に。それがののちゃんに対する恩返しだと、打ち付けるように心に刻んだ。

水も吐き、その後はもう自分で立つこともできなくなっていた。下半身で踏ん張ることができないのだ。自分では下半身が動かせなくなっていることを理解できていないのだろうか、ののちゃんは上半身だけで這いつくばるように、寝床からどこかにいこうともがき続けていた。やりたいと思っていることをさせてあげられない、本当に辛い光景だった。いよいよお医者様も覚悟をしてくださいと仰っていた。皮下点滴はやめて、最後はしっかり見届けてあげようと家族で決めた。本当に本当にもうしてあげられることはないのか。本当は点滴をしてほしいんじゃないか、胸が押しつぶされそうになりながらも、僕はののちゃんの隣に居続ける。

そして亡くなる1日前、もう這いつくばる力もなくなり、腕を動かすくらいしかできなくなっていた。看取ると決めた後は本当に辛かった。あんなに元気だったののちゃん、走り回っていたののちゃん、ののちゃんが残した家の傷、ののちゃんが永遠にいなくなる現実が間近に迫ってきていることを感じ、悲しみが押し寄せた。少しでも長くののちゃんの隣にいたい、でも苦しい表情を見るたびに早くに楽になってほしい、矛盾する想いを願った。

時折、舌を動かす仕草をしていた。喉が渇いたのかな。水を口に塗ってあげるとたまにペロっと舐めた。それだけでも嬉しかった。手を近づけるといつもの癖で鼻をクンクンさせた。嬉しい。でも悲しい。そんな矛盾する感情が入り混じり、どうにかなってしまいそうだった。その夜、母もののちゃんと同じリビングで家族3人で寝た。小学生以来だな。

いよいよ命の終わりが迫ってきた。夜中に痙攣をおこした。それで息絶える猫も多いと聞くが、ののちゃんはそれでも手を動かし、呼吸を取り戻し、懸命に生きようとしてくれていた。僕たちは頑張れとは言わず、ただただ感謝の言葉をののちゃんにかけ続けた。

亡くなる当日、僕は午前中にどうしてもはずせない用事があった。なぜこんな時に。出かける直前にののちゃんは再び痙攣を起こした。その用事はキャンセルしようと思えばできたはずだ。なのになぜそれをしなかったのか。今思えば苦しむののちゃんを見続ける悲しみから逃避をしてしまっていたのかもしれない。本当にごめんね。隣にいると決めたのに。それでも用事を早めに済ませ、昼ごろ帰宅した。ののちゃんはまだ息があった。僕が家を出てから5回ほどの痙攣を起こしていたようで、それでも必死に呼吸をして生き続けていた。心臓もまだしっかりと動いていたようだ。

しかし、僕がののちゃんの側へ行くと、突然、呼吸が絶え絶えになった。僕が帰ってくるのを待っていてくれていたの?こんな時出かけてしまって本当にごめんね。涙が溢れそうだった。でも、ののちゃんが現実に引き戻されないように、気兼ねなく天国へ行けるように僕は涙をこらえ、ののちゃんの体をさすった。そしてそれから約30分後、ののちゃんは母と僕に見守られ、息を引き取った。我慢していた涙が溢れ出た。享年16歳、本当に短い命だったが、かけがえのない16年間をののちゃんは僕たちに与えてくれた。

ののちゃんは声変わりする前の僕を知っている。最も心の不安定な思春期をともに過ごしてくれた。悲しいことや辛いこと、やり切れないことがあっても、ののちゃんがいれば心が安らいだ。僕の人生の隣に、ののちゃんはいつもいてくれた。ちょうどののちゃんの亡くなる1週前に、もう一度教師にチャレンジしようと意気込み、試験を受け続けていた結果、とある学校から内定をもらった。内定が決まるまでののちゃんは生きていてくれた。僕がののちゃんの隣にいるつもりが、ののちゃんの方が人生に迷う僕の隣にいてくれたんだ。自分もしんどかっただろうに、最後までののちゃんは僕の人生の隣にいてくれた。

でも、その学校は通勤するには遠い場所で、ののちゃんが気がかりで単身住まいしなければならないような場所はちょっとな・・というような迷いもあった。そんな僕を見兼ねたのかもしれない。ののちゃんの旅立ちは『しっかりしろ!私にかまわず飛び込まんかい!』というメッセージなのかもしれない。なんでも良いように解釈してしまうのは人間の悪いところ、良いところ、どっちなんだろう。少なくともののちゃんは僕がこう言えば、そう思ってくれるはずだ。そうだよね。ののちゃん。

さて、今この原稿を書いているのは2018年10月20日、夜中の1時。ののちゃんが自宅で過ごす最後の夜だ。ののちゃんは明日、正真正銘、心身ともに空へ旅立つ。しばらくはののちゃんロスなんだろうな。でも、ののちゃんは、きっと僕がそんな後ろ向きなこと考えるのは望んでいないはずだ。また都合の良いように解釈してしまった(笑)。ののちゃん!ののちゃんがいなくても頑張るから!安心してね!ありがとう・・・

平成最後の年。平成という時代を共に歩んだ僕とののちゃん。今、ののちゃんは天国で新しい生活の準備をしているのかな?思う存分、両足で走り回って、美味しいものをたくさん食べて、高いところにもジャンプして、、、と言い出したらキリがない。平成の次の時代、どんな時代になるのか誰もわらかない。でも僕はののちゃんとともに過ごした日々を糧に進んでいこうと思う。これからも、僕の隣にはののちゃんがいてくれる。

僕の隣には「のの」がいる 現在 228pt 泣けた

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