名前:無名さん 投稿日:2012-10-28
577 :名無しさん:2006/06/02(金) 18:01:38 ID:8N/uA3M6
ここは、ペルーの首都、リマの北北西約80kmにある、ワラル。
そこにペルー政府は85年、野菜生産技術センターを建てた。
首都リマの人口増加が著しく、野菜の需要が増加、首都に比較的近いワラルに、供給地帯として白羽の矢が立てられたのだった。
それは、『国家果樹野菜振興計画』の一環でもあった。
ところが、当時、野菜の生産は出来不出来の差が激しく、安定供給できる状態ではなかった。
なんとかしようと、農業でも確固とした技術を持つ日本に、技術協力が要請されたのだった。
それをうけて日本は、86年4月から農業技術専門家を派遣した。
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実施計画の打ち合わせ、技術指導が重ねられ、センターの役割はペルー内で次第に重要性を増していった。 長期派遣される専門家の任期を、継続したり入れ替えたりしながらプロジェクトは続き、91年は宮川清忠、中西 浩、金良清文の3氏が赴任していた。
3氏は、様々な案件のうち、野菜の中でもとくに需要の多い玉葱の種の生産化を試み始めた。 なにしろ玉葱はペルー料理の基本中の基本の食材。
これなくして食事は作れない大切な野菜なのだが、市場に並ぶものはどれも大きさはばらばらで、味も統一されていない。これでは農民も苦労が多かろう。
まずしっかりした、誰が作っても失敗のない種を作ろう、と3氏は考えたのだった。
3氏は遠い異国の生活をいとわず、現地スタッフとのチームワークをとりながら、献身的に仕事を続ける毎日だった。
578 :名無しさん:2006/06/02(金) 18:03:13 ID:8N/uA3M6
そうしたある日。
突然の銃声が静寂を打ち壊した。
テロリストがセンターを襲撃、3人は無抵抗のまま射殺されたのだ。
91年7月のことだった。
野菜センターは悲しみに包まれた。というよりも、日本、ペルーの両国が重い空気に包まれた。日本は治安の悪化を理由にJICAの専門家を帰国させ、プロジェクトは現地人スタッフに引き継がれることになってしまった。
ペルー人はへこたれなかった。野菜生産技術センターの現地スタッフは、3人の意思を受け継ぎ、やがて目標だった種の固定化に成功したのである。
この功績は日本の貢献によるものだと、彼らは信じている。
スタッフの一人は、「日本人が教えてくれたことを思い出しながら頑張った。
3人が導いてくれたんだ」と、語った。
今、現地ではワラルで作られた種をまけば、同じ玉葱が採れると、高い評価を得ている。そして、亡くなった3人の机の上には、現地スタッフの手によって今も花が飾られ、その意思と功績を称えている。
支援が続いている間にははっきり見えてこなかった、技術協力の成果。
それは皮肉なことに、悲しい結末によって、かえって浮き彫りになったのだった。
まるで潮が引いた後に、砂の上に貝殻が残るかのように……。